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西川俊彦中尉の最期

 昭和20年8月18日(第二次世界大戦が終わって3日目) 午前8時頃、東の空から1機の戦闘機が岩村田国民学校へ向かって急降下してきた。まだら模様に赤い日の丸のついた先のとがった戦闘機は、2階建てスレスレに西の空へ上昇すると、大きく旋回すると再び学校めがけて降下してきた。まっ青な空に大広かった翼は、近くで飛行機を見たことのなかった私には、そのカッコよさと美しさにみとれていた。西から突っ込ってきた飛行機に、校庭に遊んでいた20人ほどの子どもたちは、手を上げて飛行機に向かって大声で呼びかけていた。東の空から三たび降下してきた飛行機のフードがあいていて、操縦士のめがねがキラリと光った。その時、黒い管が校庭に向かって投げられた。体にはタスキをしていた。(日の丸の旗のようにもみえたが)、上級生がそれにとびついて「西川さんだ」と叫ぶと、校庭の南にある上の城地区の西川家へ走った。飛行機は、翼を振ると西の空に消えていったその時の校庭は耕されていてカボチャのつるが生えていたように思う。私はすばらしい飛行機の乱舞に胸をおどらせながら、両手をひろげて校庭を走り廻る何人かを見ながら鉄棒で遊んでいた。そのあとのことはよく覚えていないが、校舎スレスレに飛ぶ大きな飛行機のすばらしさは何十年たっても忘れることができない強い印象を受けた。いや子どもの頃の最も感動的なシーンであったと思う。

 学生時代から教師生活を通して、終戦の頃の話が出るとよくこの話をした。しかし、先輩も友人も「先のとがった戦闘機」を誰も信じてくれなかった。隼型の戦闘機しか知らなかた私でさえ、はじめはアメリカの戦闘機だと思った。けれども胴体にも翼にも大きな日の丸がついていたのをはっきり見た。

 教職を去って私は佐久市志の編集にたずさわることになった。先輩の先生方は軍隊に行っていたので、戦争中のことは私が書かなければならなかった。御代田での航空燃料廠の横穴堀り、長野種馬所(現創造館付近)につくられた海軍飛行場については私達自身が体験したことをもとに資料を集めて書いた。佐久地区における終戦を語る時、西川中尉の最期こそ私の心をふるわせたばかりか、私達が忘れてはならない事件として書きとめておかなければならないと考えた。そして「佐久・小諸の昭和史」の中へ写真を入れて紹介した。幸いにも西川中尉の弟にあたる西川孝雄・西川悌雄の両氏は岩村田国民学校6年生の時机を並べて学んだ同級生であった。以下西川氏から頂いた資料によって書いてみよう。 西川中尉の投げた通信筒をひろった先輩は筒に書かれた「岩村田町上ノ城 西川たか世様」との表書きをみて、「西川さんだ」と叫ぶと上ノ城の西川家へ走った。しかし、家にはお母さんがいらっしゃらなかった。お母さんは家の前の畑にいた。その時のことを「家の前のたまねぎ畑に突風が吹き過ぎるように、ザァーッと音がして、思わす見上げると、超低空で飛ぶ飛行機があり敵味方の見分けがつきかねるうちに翼を振って旋回して去りました。敵にしては翼を振ってなどと、いぶかっているとき、日の丸がついていたらしいと、いう人もいました。そのうち雲に隠れていた浅間山の方向でドーンという音がしました」(「浅間山の上の魂」より)

 西川中尉は岩村田国民学校に遺書を投下すると、お父さんの生まれた中佐都村、お母さんの実家である御牧村(現浅科村)、自分の母校野沢中学校(現野沢北高等学校)上空を旋回し、北に進路をとって浅間山外輪山の前掛山南斜面に激突した。積乱雲がたちのぼっていたために火口がわからなかったのではないか。

 お父さんは騎兵中佐で、第70師団の副官として中支南京地区にあり、家にはお母さんと幼い兄弟だけであった。家に帰ったお母さんは罫紙4枚に鉛筆で書かれた遺書を目にした。

遺書はこちらにございます。


 遺書を読んで驚いたお母さんは、警察に届け出るとともに、お父さんの本家に知らせ、翌19日に一族の人々が登山して浅間山山頂の火口付近を探したが発見できなかった。これは火口に突入したものと思い、諦めて下山した。

 翌昭和21年5月5日、復員したお父さんは中尉の死を駅頭で聞いた。その年の5月10日夜、軽井沢測候所員によって飛行機の残がいが前掛山で発見されたとの知らせを受けた。翌11日に家族の親戚の人々は登山して、ほとんど白骨化して散乱していた遺体の一部と、被服の注記、印鑑などから中尉と確認した。遺骨は集められて、近くの山頂に埋葬され、ケルンを築いて冥福を祈り、若干の遺品を収めて下山した。

 その後、毎年8月18日には家族の人々が登山して、新らしい国旗を墓前に供え、国の復興や家族の様子などを告げるのを常とした。昭和40年、お父さんは古希を越えられたので分骨し、一部は山頂に残し、他は郷里の祖先の墓地に移した。

西川俊彦中尉の略歴

大正13年6月16日 長野県北佐久郡中佐都村に生まれる
昭和12年4月    県立野沢中学校へ入学
昭和16年4月    陸軍予科士官学校へ入学
昭和17年10月   陸軍士官学校へ入学
昭和19年4月    陸軍航空士官学校へ入学
昭和19年12月   明野航空隊・特攻隊長となる
昭和20年6月    陸軍中尉に任官

(この稿は西川さんの御遺族のお許しを得て書きました)

(佐久市岩村田3200−5 小林 収)



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