戻る
No.56
絵・青木睦子
季刊 読書の森NO.56
巻頭言
巻頭に次号の予告から始めるという話も聞いたことがありませんが、次号はドストエーフスキーの『罪と罰』に係わる内容になる予定です。その必要から今その『罪と罰』を?十年振りに読み返しているところなのですが、余得とでも言いましょうか、その中にはっとさせられることばに出くわしましたので、今回はそんなことばを思いつくままあちこちから拾って、一号に纏めたいと思い立ったのであります。
さてその『罪と罰』の導入部分中に主人公のラスコーリニコフの夢の件があるのですが、その夢がまた悲惨で、酔いどれが自分の老いぼれた馬を街頭で、いじめ殺すのです。その酔いどれは皆が見ているので、いよいよ興奮して馬を棍棒で殴りつけるのですが、群衆というものは無責任で、ある意味で怖ろしい存在です。もっとやれ、もっとやれと囃す連中もいるのです。しかし、その群衆の中から年寄りの罵る声も聞こえてきたのでした。
「やい、悪魔め、手前は十字架を有たねえのか!」
今回は題して「良心の所在」です。
特 集
良心の在処
「おまえは十字架を持たないのか」
巻頭言にご紹介しましたこのことばはおそらく十九世紀の露西亜で、ひとの非を譴責するとき日常的に使われていた言い回しなのでしょうが、さすがキリスト教国ならではの言い回しですね。
別に皮肉ではありませんが、歴史上しばらくキリスト教初め宗教を阿片だとか言って、追い出していた時期に露西亜の庶民はこれに代わってどんな言い回しをしていたんでしょうか。
ソルジェニーツィンの『収容所群島』あたりに確か、国家が伝統的な信仰を強圧したときに生じる社会的な歪みについて記している箇所があったはずですが、如何せん、大著で、ちっとやそっとではその箇所を探せそうもありません。ごめんなさいね。(いつかこの大著についての特集号にも挑戦するつもりです。)
「恥ずかしい」ということ
ではキリスト教圏以外の國ではどんな言いまわしがあるのでしょうか。例えば日本では?
我が日本では「お前はお数珠を持たないのか!」とかいう言い方は残念ながら聞いたことがありませんが、やはり「恥」の文化と言われるくらいですから、この「恥」を意識した言い方は山ほどありますね。ひとを譴責するときには「恥を知れ」。「この恥知らず!」。自ら恥じるべき事態に直面したときには「恥ずかしい」などなど。これは先の「十字架を持つ」という言いまわしに比べて視覚的にはアッピールしませんが、より含蓄の深いことばにはなっていますね。どんなところがなんでしょうか。
天知る、地知る、子知る、我知る
いずくんぞ知る無しと言わんや
恥ということばにはいつも他人の目が、意識されていますね。「ひと(様)が見ているでしょ」などとよくこどもは親や周りの大人たちに叱責されてきたものですが、ではその「ひと」と」というのは誰のことなのでしょうか。ここに中国の古い格言があります。
昔ある業者が夜陰に乗じて役人に賄賂を送ろうとした。しかしその役人、清廉の士で受け取らない。そこでこんな夜陰の中で、誰にも知られませぬからと更に収賄を促した。そこでその清廉の士は言った。おまえは誰にも知られないと言うが、天が知っているし、地もこれを見て知っている。更に勧めるお前自自身が知っているし、勧められる私自身も知っている。どうだ、これでもまだ知るものはいないと言えるのか。
個人的なことを申しますと、このことばは当編集人が、一番好きなことばの一つであります。
では、天とは何ぞや、地とは何ぞや、と煎じ詰めていく段になるのであります。
閻魔大王とカント
さてこの「我知る」はこうも言えますね。つまりひとは騙せても自分をは騙せない。
またこの「天知る、地知る」は仏教ではこうも言われていますね。つまり、死んだあと閻魔様の前で、生前の悪事が総浚いになると。(おお、恐!)
この事情は、哲学のことばですと、「超越的自我」、「内在的自我」とも呼ばれて、永らく論究されてきたところのものです。
ここで閻魔大王とあのカントの取り合わせっていうのも、あるんですよ!
それというのもカントは、良心を定義して、人間の内なる法廷の意識であるとしました。つまり法廷ですね。閻魔様の前というのも法廷で、閻魔様は裁判官なわけです。まあ、不遜なのでありますが、洋の東西を問わず、ひしひし感じていることはみんなおんなじなんだなと思ってしまいます。
さて精神分析では、この間の事情を「超自我」と読んで、いわゆる人様の意識が、個人の中に内在化した、という言い方になるようであります。
このようにいろいろ、挙げてまいりますと、ただ見られているというよりは、見ている存在者にも意識が向いてくるのであります。
エイジの智慧
ここでエイジ君の話をご紹介いたしましょう。エイジ君はダウン症の知恵遅れの子でした。ダウン症に共通した特徴ですが、このエイジ君も朗らかで頑固、彼なりに楽しく少年時代を過ごしてきたのですが、いよいよ中学も卒業間近となって、さてどんな仕事に就けるか、難題に直面する時期になりました。彼の適性と能力とを考え合わせ、またお父さんの仕事の関係もあって、「社会自立」のためにたばこの小売店を持たせようということになりました。
と言っても最初から店の経営などとても無理です。当初は母親がつきっきりで面倒を見るということで、ある場末の雑貨屋さんに頼んでたばこ売場を作ってもらったのでした。
まずエイジにたばこの値段を教えるところからスタートです。それからお釣りの計算練習。当たり前ながら銘柄ごとに値段も違いますし、お釣りを出すにしてもまちまちになります。実はこのような抽象的な計算能力が彼らの一番苦手な部分なのです。
が、本人もここを正念どころと思ってがんばりましたし、お母さん初め周りのみんながこの訓練に粘り強く、粘り強く、粘り強く取り組みました。
その成果あってやっと一年半ほどかかって、なんとか大きなミスもなくやっていける目処がついて、開店の運びとなりました。
商売は順調でした。が、それから五年後・・・
たばこの値上げがされました。銘柄ごとに値上げも一律ではありませんでした。
ひと一倍融通の利かないエイジには対応しきれない事態でしたし、そも値上げということを説明して、承知してもらうこと自体が至難のことでした。
変化に対応できないエイジは、今まで通りのお釣りを出しますし、客の多くはその釣り銭を確かめもせずにポケットに入れてしまうし、中にはしめしめと常連の確信犯になってしまう人たちだって出てきました。これでは商売になりません。
みんなでさんざん考えたのですが、名案も出ません。やはりエイジに店を持たせたこと自体が間違いだったのだ、閉店しようとの結論に達しようとしたその時、エイジが名案を出したのでした。
それは「お客に計算してもらう」というのでした。あらかじめ小銭を入れた箱を用意しておいて、お客さんに釣り銭を持っていってもらうというのでした。
しかし、狡い客もいるのではないか・・・私たちはついそう考えてしまいます。ぜひやらせて欲しいというエイジの熱心な頼みで、それではこれでだめなら閉店と覚悟してやらせてみたのでした。念のため「釣り銭は間違えずに持っていって下さい。」と小さい立て札を箱の横に立てかけました。 お客は最初戸惑ったようでしたが、すぐに事情を了解して自分で釣り銭を持っていきますし、中には「釣り銭は要らないよ」と釣り銭を持っていかないお客もいるのでした。エイジはたばこをお客に渡すたび、「あいど、あいがとうございます」と笑顔で応えるのでした。
しかし、中には狡い客もいたのでは?
しかし、「知恵遅れ」とはいえ、小銭箱を見下ろしているひとの目の前で小銭をごまかせるものでしょうか。
こうして知恵遅れの知恵者の(何という形容!)エイジ君の知恵の賜で再び商売が繁盛して続けられたのでした。(注1)
さてこの話でよく分かるのでありますが、私たちは見られているのであります。それとともにわたしたちはこの話の中で確かにエイジ君とともに小銭箱を見下ろしていたのであります。
ピッコロ・声
ひとがいる、自分がいる。それぞれ見られたり、見たりしているという感覚がより先鋭化してくると、自分の分身という感覚になってくるのではないでしょうか。
ここで児童文学の古典の一つ『コタンの口笛』という物語が思い出されてくるのであります。如何せん、当編集人がこれを読んだのが、小学四年という古さですので、印象的なところしか覚えていないのでありますが、主人公の少年が、右するか左するかで精神的に大きな岐路に立つとき自分の中で動き出すものがあり、これを少年がピッコロと呼んでいつも対話の相手にしていたのでした。そのピッコロが単に自分の内面の感覚というよりは、半ばキャラクタライズされた存在であるということに、当時神秘の感に打たれるとともに、さもありなんと納得したのをよく覚えているのであります。
今も変わらず、たとえ呼び名を代えてもピッコロは、分身は、自分のうちにも誰の裡にもあると思うのであります。
ソクラテスとダイモン
良心との対話と言えば、人類史上を代表すると言ってもよろしいでしょうソクラテスとダイモン(デーモンとも)をもご紹介しておかなければ、この小文も人類史上、片手落ちというものでしょう。
ソクラテスには凡人から見て、奇癖としか映らないほど、その思索に没頭する能力があって、特に有名なところでは戦場の弓矢や砲弾が飛び交う中を、丸一昼夜微動だにせず立ちつくしていたという信じられない実話が残っています。 そのようなとき、彼は何をしていたのか。ある問題について徹底的に思索を重ねていく。それでいかほど、いかように考えても結論が出ない問題については、このダイモンに訊いたというのであります。
きっと最後の、毒杯を仰ぐべきか、否かについてもそうだったのではないでしょうか。
醜い姿の良心・顔
さて、ここまでのところは声としての良心でした。
しかし思い返してみますと、顔としての良心の姿もあるものです。
思い出すままですが、手塚 治虫の『ブラック・ジャック』の中にも醜い姿の良心に係わる話がありましたね。
顔面の奇病で二目と見られないほど醜い顔になってしまってロッキー山麓辺りらしい山中に独り暮らしている男に頼まれて手術をしてやり、元の優男の顔に戻してやったのでした。するとその男大変な殺人魔で、元のこの顔に戻ったからにはまた町に出て人を殺せると喜び、事もあろうに手始めにその場にいた主治医のブラック・ジャックを殺そうとしたのであります。
と、その時顔面が痛み始め、転げ回って苦しんだ末なんと、元の醜い顔に戻ってしまったのでした。
結局その騒ぎの中で致命傷を負った男が倒れているのを、それでも医者として助けようとすると、その醜い男がブラック・ジャックに唾を吐きかけて、この男をこのまま死なせてやれ、それがこの男にとって幸せなんだと言って、死んでいくのでした。こと切れると顔がまたみるみる変わって元の顔になったのでした。
本人自身が本人に、これ以上悪事を働かせないように、人前に出られないように仕向けたのですね。これは人格自体が病的になってしまった極端な例でしょうが、 誰にとっても、自分の元の顔と今現在の顔がどの程度同じなのか、違っているのか、決勝点はきっとそこですね。
見た目でなく、顔は人格の賜ですから、にんげん四十を過ぎなくても、顔には十分気をつけておきたいものであります。
「良心」と罰
さて縷々述べてまいりましたが、英語ではこれを common sense と言います。共通の感覚という意味です。もうすこし普遍化して conscience とも言います。このcon-と言う接頭辞は全体知の意味ですから、やはり全体という広場(法廷)と四知(天・地・子・我)のことを言ってるんですね。
ですから、もし例えば嘘をついたとしてそれは仏様の掌の上の孫悟空みたいなもので、実は既に天地の果てまで届いていて、その罰はきっと、仏教的に言う閻魔様から頂くとかではなくて、あるいはそう見えて自らの内から返ってくるものなんでしょうね。
自らを罰して、例えば病気の姿になったり、家庭不和を引き起こしたり、ひどく貧乏の姿になったりなどというのは全然儲かった話ではありませんから、そんな割に合わないことはくれぐれもしたくないものですね。
注『この子らは世の光なり』(伊藤 隆二著 樹心社刊)より
ながらくお待たせしておりますが、編集作業がほぼ終わり、プリント・アウトにかかりました。その後製本の段取りです。お目見えは来年春三、四月頃になりましょうか。その際は出版記念コンサート・パーティも計画しておりますので、こちらの方もご期待下さい。
森の展覧会これから
●11/23?12/25
Happy X、mas グリーティングカード展
山口マオ 高橋 湿枝 藤沢 明子 あおきむつこ(以上イラスト)菅原 博之(カード立て)
●同時開催Happy X、mas 中村K子の世界
アメリカン・パッチワーク
●1/2?31
新春 招き猫大展覧会
小林 篤(木彫)あおきむつこ(イ ラスト)藤沢 明子(絵画、小物) 高橋 湿枝(イラスト、小物) OIDEYOハウス
画文集『緑の杖』作業工程のご報告
ながらくお待たせしておりますが、編集作業がほぼ終わり、プリント・アウトにかかりました。その後製本の段取りです。お目見えは来年春三、四月頃になりましょうか。その際は出版記念コンサート・パーティも計画しておりますので、こちらの方もご期待下さい。
グッ・ニュース!
この紙面では既に読者の皆様にお馴染みの名前ですが、イラストレーターの高橋湿枝さん(小諸在住)がイラストを担当した本が、11月にPHPから発売になりました。『きっとあなたを励ます「勇気の練習帳」』三宮麻由子著)です。全国どの書店でもお求めになれます。もちろん、読書の森でも。
この前の、同じくPHP刊行の『心が○くなる50のメッセージ』(菅野泰蔵著)のイラストも彼女ですが、こちらも全国津々浦々の書店にて大好評、発売中です。

●残念ながらこの号の発行が間に合わなかったので、事後報告のような体ですが、今月七日に、ペインティング・ライブのパフォーマンスを行い ました。ペインティング・ライブと言うのは即興的な演奏の中で、大きなカンバスに絵を仕上げていくというものです。説明いたしますと、それだけになってしまうのですが、その両者のコラボレーションによって、見ている間に絵が出来上がっていくドライブ感を観客も共有できるのが、一番の醍醐味です。今回はペインターに OIDEYOハウス(小県 郡真田町にある知的障害を持ちながらもアートする集団)のメンバーのお一人、塩沢明子さんを、演奏には荻原崇弘さん(小諸市在住の作曲家)矢嶋 玲さん(北御牧村在住の画家)OIDEYOハウスの職員、佐々木 僚太さんにお願いして、行われました。イメージの次第に解放されていく楽しい一時でした。
●この「編集後記」の字で、この号の 所々にも使われている字体ですが、 新 篆刻体(しんてんこくたい)と言うんですって。漢字の元になった、いまだ 象形文字の名残を留める字体ですが、そ のまま一字一字の踊りだしたくなるような絵的愉しさ。字源もある程度見当のつく勉学意欲につながる(かもしれない)字形。でも生粋の篆刻体にはひらがなも数字もローマ字もありません。そこでパソコン用に工夫されたのが、この新篆刻体というわけです。この前、ひと様のご好意で、読書の森のパソコンに入れた(インストール した)のです。ずばり言って、今この字体にはまってるのです。皆様、どうでしょう。
もうひとつの編集後記
こんにちは。思ったのです。本当にあるのかと。できるのかと。みなさんはどう思うでしょうか。海賊とゆうものを。海って現実とはちがうものがあるんじゃないでしょうか。みたこともない生物、見たことも聞いたこともない島があったりするかもしれません。ゴールド・ロジャーって知ってますか?
わたしが思う海賊王です。全部の海をまわり、とてつもない遺産を残した人物です。イースト・ブルー(東の海)ウエスト・ブルー(西の海)サウス・ブルー(南の海)ノース・ブルー(北の海)全部です。そして全部の海の生物が集まるといわれているオール・ブルーそして幻のグランドラインへ行ったのが海賊王ゴールド・ロジャーわたしも海賊やってみたいなあーと思います。 (依田 みずき)
戻 る